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被災地支援をやってみた

暑さとだらけに比例の関係が見られて、あーたぶんこのだらけっぷりはおそらく25度だなー とかいってるくらいに暑がりながらのお昼過ぎ、いかがお過ごしでしょうか。 今夏はしゃきっとしま宣言だなと、適当な標語を思い浮かべながら更新してるカブです。 こんにちは。

さてさて、というわけで知ってる方もそうでない方も僕はがりがりとここ一ヶ月半ほど東日本大震災の被災地支援にいってましましてね、それはもう存分に働いてきたのでそこで思ったことやらなんやらをちょっと無造作にまとめてみようではないかと思いたって今に至るんだよ。

■活動期間
3/29日から5月15日まで

29日は東京で作戦会議で、
30日は物資調達のため山形泊。
被災地に本格的に入ったのは31日から。

■活動範囲
北は陸前高田から南は東松島市。
陸前高田は南の方だけで東松島は宮戸島までね。

■やってたこと
とあるNPOに所属し緊急支援を行ってました。
活動範囲内の避難所をひたすら回って欲しいもん聞いてそれに応えていくんだけど、
おおよそこれはまあまあ必要だろってもんは大抵用意して配布してた。
それがメインで他には炊き出しやら、ガレキ撤去やら、スリランカ大使の護衛とか、避難所まわりで時間があれば
その辺のばあちゃんと話したり、子供がいれば子供と話し、そこにダンボールがあればダンボールを片付けたりしてた。

それと僕個人としては、基本的に何でもやるのでそれこそ何でもやってたんですが、いってもweb屋という事でコンピュータが得意なので例えばgoogleのスプレッドシート使って避難所データベース作りや日程管理表を作ったり、googlemap使って行ったところの避難所をまとめたり、twitter、youtube、flickrあたりのwebサービスを使って活動報告したり、なんならその所属していたNPO法人さんのwebサイトも更新してみたりなんだりかんだりその辺やってました。
あとはマネジメント業務ですかね、組織を支える縁の下の力持ちというか屋台骨といったところでしょうか、自分なりに考え組織をうまくまわす動きをしてました。スケジュール管理やタスク管理、ボランティア管理あたり。なので後半は現場と事務所半々くらいで活動しておりました。

■4月上旬まで

合言葉は

「緊急だから」

なにしろ特に何も決まらずポーンと被災地入りしたもんだから
最初はどこに行くか、何をするか、というか泊る場所どうすっかーとかそんなレベルで
隊長と二人話しながら先遣隊として活動を開始。この隊長がまた「超ブラック企業で十弐分通じるレベル」の
超働き者で超タフガイでいやーすごかったな、こんなに働く人久しぶりにみた。
特に金にもならんだろうし、前世相当悪いことをしてそれの贖罪をしてるとしか思えないパワーだった。

そんでこの被災地入ったころってのはいっても震災発生から2週間ちょっと経ってるわけですから、それなりに落ち着いてるんじゃないかなって思ってたんですが、いやいや結構まだまだ大変な時期で、水が足りないレベルの地域がそこらに発生してたんですね。ガソリンの問題もあったりなんだりで自由に身動きするのも中々難しかったりなんだりでね。んだから、とにかく避難所まわって、とにかく物資配布をやりまくってました。 それでこの頃の泊り場所は東松島市の矢本東小学校という避難所の5年2組を拠点にさせてもらいましてね。
ただいまーっていって学校に帰って、そんで小さい机ならべながら会議したり飯くったりそのまま教室でごろ寝してたりしてました。
これもまたいい経験でしたね、ほんとに。

■4.7
最大余震、震度6強があった日ですね。
ちょうどその時間、仙台に帰ろうと小学校のグラウンドから車をぶぶんと走らせたところで「あー道悪いなあ、おいおい」と思ってたらどうやらね、なんか様子が違うようで、目の前の車もぶよんぶよん跳ねてるわけですな。おぉっと思って外に出るとぐらぐらと揺れてましてね、あーこれは結構大きな地震だぞ!ってことですぐさま小学校に戻って、被災地支援。津波警報が発令されたので避難してきた住民の方に毛布を配布したり、屋上のドアの鍵がないってことで力づくで壊したり、救急車の誘導したり、見回りしたりなんだり。気づけば5年2組は避難してきた住民に占領されてしまったのでこの日は図工室で寝ました。

■4月下旬まで
この頃になると東北電力の活躍が大変目覚しく、
ガンガン電柱立ててガンガン電気通してガンガン復旧していくんですね。
やっぱり電気が通ると環境ががらっと変わって相当楽になるんで電気復旧とともに状況がよくなるところがほとんど。
んなもんで、余裕がでてきたところは一先ず置いといてとにかく支援がまだまだ足りないエリアを探してがつがつ支援をしておりました。

■GW
ゴールデンウィークはボランティアの受け入れをしてました。
物資配布から親交が深い避難所へ泊り込みの作業に、ボラセン派遣などいろいろ体験してもらいました。
少しでもそこから何かが生まれれば嬉しいですね。

■5月中旬まで
4月を過ぎた頃から状況は大分落ち着いてきたので物資配布と平行して中長期で支援する形を模索。
緊急支援自体は5月15日までだったのでそのまとめ作業などなど。

■感じたこと・思ったこと

-街の雰囲気
映像の通りかなりハードな風景でしたね。
山の方から行くと寸前までなんてことないただの田舎の風景が続くんですがそこからいきなりにゅるっと流出物が登場するんで、最初はとてもびびりますね。何より「海がどこにも見えない」場所から続々と登場するいかれた車や船を見かける度に戦慄ですよ、そうあれは戦慄だったな。宮城の沿岸部はほぼ走破しましたが、比較的被害の少ない松島周辺以外はまあ多少の差あれど延々とあんな様子でよくいう「言葉にできない」状態が続いてました。
特にぱっと思い出して印象的なのは志津川周辺でしょうか、ぼーと眺めてると野焼きしてる火の煙も合わさり空襲後はこんな感じだったんだろうなあと思ったり。爆心地って言葉が似合う、それくらいハードな印象があります。

とはいえ、日が経つにつれどんどん綺麗になっていく様をみてると、なんだかんだいいながらも復旧のスピードは目覚しく感じた。特に新たに建てた電信柱の存在感は凄くて、日に日に増えていく新しい電信柱を見るたんびに希望がもてた。

-支援に関して

適切な支援って難しい。

これに尽きるかなあと思います。
そうさねぇ、まず基準がないのが難しいね。
何が正解ってわけでもないし、誰に支援しなきゃいけないってのもない中で、でも全体に平等にというのはまあ不可能な状況だったりするわけですな。
例えば、場所によっては「貯め」に入ってる避難所も中にはあるわけで、そこは本来物資は「今」足りてるけど、今後を見据えて「物資は足りません」と言ったりするわけですね。そういった行為自体は何ら悪いものではないですし、むしろ同じ状況なら自分も考える方法だとは思う。ただ支援する側としてはできれば緊急性が高い避難所に物資を届けたい中でそういった声はノイズになりかねなかったりするわけです。しかもその判断が特に初見の場合は非常に難しい。ある程度避難所まわりをしたりして、他の避難所と比較したり、ある程度その避難所に通ってからじゃないとそこがどういう状態にあるのか適切に理解することが難しかったりする。 避難所毎でもそうですし、それこそ人によってもだいぶ違かったりする。例えばある人は「卵が全然こないんだよ!一週間もこなくなった!」といえばある人は「卵?結構きてますよー10日に一回はきてますー」といった具合。
無事だった家に縁故者なんかが間借りして住む「民泊」状態だと実態を把握するのはさらに難しくなるし、あとはメディアに登場する避難所は注目があつまり物資も集まりやすくなるけど、そのぶん「物言わぬ避難所」はスルーされてしまったりとかとか。

あとはあれだな、今回たまたまこういった大きな震災だから注目されてるだけで小さな理不尽は注目されないがために流される、それこそ不条理なんじゃないのかなと思ったり。

-各支援団体に関して
もうちょっと協力して作業する仕組みが欲しい。
協力しなさすぎてびびる、連携するにあたり問題はあるとはいえ、とはいえさってところ。

-軋轢
いろんな軋轢を感じた。

・合併前の市町村間の対立
・地区と地区
・行政と社会福祉協議会
・社会福祉協議会と各支援団体
・各支援団体と各支援団体
・行政と民
・波がきた人、こなかった人

誰も悪くないんだけどね。

-被災者
なんかこうテレビをみると「被災者」でくくってしまう所があるけど、
実際は被災者ではなく、人だよね。人だから、それぞれ違った考えや思いがあって、
その根本的な部分は震災があろうがなかろうが大して変わらないんだと思う。
前向きな人は前向きだし、後ろ向きな人は後ろ向きだし、私かわいそうな人は私かわいそうだし、
なんとかなるさって人はなんとかなるさって思ってる。

-ボランティア
所属していた団体でもボランティアを募ったけど来ていただいた方はみな意識が強く非常に役立ってくれたと思う。どうも「モンスターボランティア」を取り上げようとしたがる記事をみかけるけど、僕が見た限りではそんな人は極少数だったと思う。
ちなみに僕自身もまセン(http://hamamo.hida-ch.com/)というボラセンでボランティアにいきましたがみなさん意識がとても強くしっかり働いていたと思うし、管理する側の人たちも地域とみっちり協力し運営もうまくまわってたと思う。もちろん急ごしらえの組織だから、問題点も多少なりあるにしろ、

http://spa.fusosha.co.jp/feature/number00014755.php

↑こういうのは見られなかったな。
というより個人的な意見としてはそんな風にうだうだ文句いってないでそれでもとにかく現地きて金落として見たものを伝えてってことをやったほうがいいと思う。まだまだやることあるし、もし二の足踏んでる方いたら、ぜひいってみては。ちなみに観光客がどっと押し寄せて三陸道が大渋滞でどうのこうのって話も単に仙石線が不通だから通勤車が増えたのが一番の原因だと思うし、通勤時間外は実際そこまで渋滞したって感じもしなかったですね。そういうイメージがあるから広まるのかな。

-村意識
田舎の村意識は凄く感じたな。
ポジティブに働くこともあればネガティブに働くこともあるように思えた。

-その他
漁師は儲かる。
精神病や障害者はほとんど見かけなかったけど、(恐らく)薬中はいた。

■原発に関して
ないに越したことはない。

というのは誰もが思うことだと思うね。
でもないと困る人もいるのかなあとも。利権云々の話ではなく、単純に街づくりの一貫として原発誘致が組み込まれており、その中で生きる人々がいるのも現実でじゃあそこで暮らす人はどうすればよかったのか、無視して限界集落を廃らせたほうがよかったのかどうなのか。原発誘致した場所だけが注目を集めるけど、日本の田舎なんてたいがい似たような状況だろうしそれってじゃあ町おこしをやろうぜ!とかそういうレベルの問題だけでなく(もちろんそういった動きがあるに越したことはないけど)、日本の社会そのものの根本的な問題なはずで、解決するにはどうすればいいのか非常に悩むところ。許容して廃れる道を選ぶことが最善なのか、残すのか、そこに関しては結局のところそこに住む人の問題であって、残す場合に「原発」というカードを切るのもまた一つの手ではあるなあと思ったりはする。大事なのはなぜそのカードを切ったのか、その過程を無視してこれらの問題解決には何一つならないんじゃないかな(脱原発になったとしてもね)。
ただ、どうやら東電がダメすぎたってのは大方同意で想定外の運用をしていたのが何より想定外だったな。きちんと運用してれば防げた問題だったのかどうかはわかんないけど、(ここ最近は見てないけど)会見もものすごい悪い印象があったし、その辺は今後も不安だね。やるならせめて正々堂々運用して欲しい。

それにしてもこんなにも身近で巨大なものなのに都市伝説的な部分があるのはなぜなんだろうか。

■まとめ
例えば女川の出島ってところは避難勧告がいまだ解除されず島に戻れる目処もついてない。
まだまだそういう状況だし、被災した市町村はどこも10年を目安に復興計画をたててる。
原発も含めて長期戦になることは確かでしんどい状況は続くけど、とはいえ一歩一歩やっていくだけだと思うし、現にこうしてる間も一歩一歩着実に復興へ進んでる。ピンチの後にチャンスがくるなんていいますが、裏を返せば今の状況は色んなものを変えるチャンスだと思う。節電だってこういう状況だからこそここまでできてるんだろうし、逆に今の状況を利用するくらいのパワーが必要なんだと思う。

ちなみに個人としては僕はあくまでWeb屋なのでWebを使った何かをやっていこうと考えてます。

■写真

だらだらと長文を書いてしまったので最後は写真を何枚かパシャパシャ。

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